小論文の書き方について

かつて小論文の書き方を指導していたときに感じたことを少しだけ書きます。
小論文の指導では,とかく型にはめた書き方をするように指導しがちですが,これには疑問を抱いています。
確かに,そうしないと一定水準にも達しない小論文を書く人が多いため,ある程度いたし方がないところはあると思います。
しかし,数多くの実際の小論文を見てみると,もともと一定水準に達していない人は,型にはめようと,そればかりに気を取られて,かえって何が書きたいのか,よくわからないものになっているものも少なくありません。
それでは何にもなりません。
一定水準に達していない小論文の多くは,①書くべき内容が見つからない,②相手に伝えようという意思が欠けている,この大きく二点だと思います。
よく知られたことですが,ある大学の入学試験で「経済学部への期待」という題の小論文が課されたとき,ある受験生は入院したときのことを書いて,採点者は途中から「???」となり,看護師がみんな「良かったね」と喜んでくれたくだりで,それが「屁の期待」について書かれているのだとわかり大笑いしたという話があります。
これは,「経済学部」と「への期待」を二行に分けて書いたことに原因がありますが,まさかそうした誤解を生むとは大学側の誰もが考えなかったことでしょう。
仮に,文章を書く力があったとしても,内容が的外れでは何もなりません。
しかし,私は,練習段階では,あえて関係のあまりないことから書き始めてみることを勧めます。
例えば,医学部の入試などで問われる「安楽死」というテーマの場合,「人の命は貴いものだ」のような内容から入る人が多いと思われますが,あえて「死」とは何の関係もないもの,「娯楽」や「趣味」などに関する内容からアプローチをしてみるのです。
もちろん,関係のないものから入っていくと強引にテーマにもっていかなくてはなりませんから,かなり無理のある,流れの悪いものとなります。
そのため,こんなことを勧める人はまずいないのですが,しかし,これの良い点は,文章の構築力が伸びることです。結論へ導く流れを必死になって考えるという作業をすることが,文章力の向上につながるのです。
初めから無難にまとめる書き方ばかり練習していては,なかなか説得力のある文章が書けるようにはなりません。
一度型から外れたものを書いてみるのも,テーマを多角的に捉えられることにつながるのではないかと思います。
そうすると,「なるほど安楽死をこういう視点でとらえることもできるんだな」と思わせるような小論文が書けるかもしれません。
評価の低い小論文の中には,初めから最後まで,結局は同じことしか言っていないものが見られます。つながりがバラバラであるもの,結論らしい結論になっていないもの,などと同じくらいこうした小論文は多く見かけます。
小学生の作文で,「僕のお父さんは,酒癖が悪く,酔うとすぐに僕の頭を殴ってきます。あと,息も臭くて気持ち悪いです。たまにどぶ川のような匂いもします。人前では見栄を張ったり,嘘を言ったりすることもあります。でも,そんなお父さんが僕は大好きです。」などというのがありますね。よく見かけるパターンの作文です。さんざんけなしていて,「大嫌い」となるのかと思いきや「大好き」と結びます。しかも,それについては何の理由も書かれていません。でも,読んだ人は,これほどこと細かにお父さんのことを観察しているということに逆に深い愛情を感じるのではないでしょうか。ですから,悪口を言った最後に「好きだ」と書かれていても,それほど不自然だと思わないのです。
これと同じように,別の視点から書かれた文章は,うまくまとめると「なるほど」と思わせるような,印象度の強い文章になる可能性を秘めています。
無難にまとめた文章は,可もなく不可もなくというような文章となり,印象度としては低いと思います。
私は,型にはめた書き方の指導は,こうした文章に陥ってしまう恐れがあると考えています。
「いやいや,30点になってしまうようなことがあってはならないので,常に60点をキープできる文章がいいんだ」という考えもあるでしょう。
それを否定することはしません。文筆家になるわけではないのですから,感銘を与えるような文章にする必要などはないかもしれません。
しかし,説得力のある文章を書くには,心の底から書こうという気持ちがにじみ出るようでなければならないと思っています。
一度きりしか読んでもらえない文章だからこそ,その一度に思いのすべてをぶつけられるような文章を書いてほしいと思います。
同じ練習ばかりしていては,どのスポーツでも上達に限界があるのと同じです。
一流のアスリートほどさまざまな練習を取り入れていると聞きます。
小論文の練習でも,さまざまな練習を取り入れてみてはどうでしょうか。
みなさんは,いかが思われますか。