執筆者の募集について

教材作成者として、さまざまな思いを書き綴るためにブログを始め、今日までにすでに約3万ものアクセスをいただきました。面白みのない、かたい話題ばかりにもかかわらず、こんなにも多くの方に読まれたことを大変感謝申し上げます。
また、このブログを見て、執筆者にご応募くださった多くの方々に、心から感謝申し上げます。
私どもの仲間になっていただき、本当にありがとうございます。

さて、新たな年が始まりました。
私どもも、小学生、中学生の教科書改訂に向けての準備に入りました。また、最近、私どもの仕事の多くを占めるようになりました高校生対象の教材にも、より一層対応できるように体制を強化しつつあります。
これを機に、私どもの仲間としてともに教材づくりをしてみよう、という方は、是非ご連絡ください。

先日、新聞に日本の小学生、中学生の理科と数学の成績が伸びたことが報じられていました。
ゆとり教育の成果なのでしょうか。
こんなにも、簡単に結果が表れるものなのでしょうか。
学力の積み上げは、地道な作業の連続のように思っていましたが、制度や方針に大きく左右されるものなのでしょうか。
もし、そうであるなら、教育教材が担う責任は重大です。教材の良し悪しが学力の伸長に大きく影響するからです。
私どもも教育教材に関わる者の一員として、気持ちを引き締めて、教材づくりを行わなくてはいけないと痛感しております。
たかが教材、されど教材です。

教師の国歌斉唱不起立について

卒業式のシーズンになると,国歌を斉唱しない,不起立の教師のことが報じられます。
そして,自らの主義主張を唱えるのではなく,ルールを守ることの大切さを子どもに教えるべきだ,という意見が多く掲載されます。
確かに,日本は法治国家であり,ルールを守らなければ社会は成り立ちません。
教師と言えども例外ではないはずです。
しかし,問題となるのは,「君が代」の意味であり,第二次世界大戦の暗い歴史につながるからなのでしょう。
けれども,あくまで反対を貫き,不起立を貫くのは大阪以外ではほとんど見られない,ということも聞きます。
教育教材をつくる立場から考えますと,たとえば,「憲法第9条」にからんだ出題については,出題にクレームがつきやすいですし,国語の出題も,どれだけ心を打つ作品であっても,マイナスイメージのある文章は避けたがる傾向にあります。
模擬テストで出題する文章に,そこまでナーバスになることがよくわかりません。
一部のものだけを守ろうとする,避けようとする発想はすべてにおいてあります。
それが表面化したものが,卒業式などでの態度につながっているのでしょう。

しかし,無菌状態を続けていると,わずかな菌でも感染するようになると言います。
手をつないでゴールする運動会。グランドがぬかっていたから実力を発揮できなかったという子どものために,翌日再度競走をさせることが,本当に子どものためになるのでしょうか。
実社会では,再度やり直しなんて,してもらえるはずがありません。

社会で決められたことであっても,自らの意思に反することは守らなくても良い,と示すことが,多感な子どもに良い影響をあたえると思われているのでしょうか。

私は,真に子どもの将来のことを考えるのであるなら,自らの主義・主張を貫く以上に,子どもに範を示すことができる教師を,格好の良い教師だと思います。
実力を発揮できないで流す悔し涙は,その子を強くすると思います。
手を差し伸べることだけが愛情ではないはずです。
「いやあ,あのときは悔しい思いをしながら起立していたんだよ」と,20年後,酒を酌み交わしながら,生徒と大人の会話のできる教師を,とても格好の良い教師だと思い,「恩師」として尊敬すると思います。

みなさんはいかが思われますか。

教科書の厚さについて

中学校の教科書改訂にともなう仕事が終わり,ふと「教科書の厚さ」について考えてみます。
もともと教科書の厚さが薄くなったのは,分厚い教科書=詰め込み主義=いじめ,登校拒否など諸悪の根源,といった図式が成り立っていたからではないでしょうか。
もっともらしい理由として「思考力」を伸ばす,というのがありました。
授業時間を減らし,土曜日を休みにして,確かに「時間」的には,ゆとりは生まれたと思います。しかし,それによって「思考力」は伸びたでしょうか。より創造的,建設的な生き方ができるようになったでしょうか。
どうしても学習しなければならないことがらであっても,ページ数を減らすために,より簡略化した説明にせざるを得ません。
そうなると,学校の現場で,簡略化された説明を補って指導しなければならなくなります。
その結果,先生によって授業に差ができてしまうことになります。
教科書が分厚くなれば,それだけ説明を丁寧にすることができますので,教科書で理解しやすくなります。
授業される先生方にとっても,教えやすくなるのではないでしょうか。
分厚い教科書が諸悪の根源,詰め込み主義につながる考えが,私には理解できません。

たとえば「石油危機」に関する説明として,「第四次中東戦争の影響で石油価格が暴騰し,石油危機がおこりました。」というのがあったとします。もし,これ以外に何も説明されていなくて,生徒はすんなりと理解できるでしょうか。
中東戦争がどういうものであり,産油国がどのような動きを見せ,石油資源をほとんどもたない日本がどのような影響を受けたかを説明してあったほうが,理解しやすいのではないでしょうか。
もし,簡単な説明で理解しにくければ,テストで点をとるために,生徒は恐らく上記の説明を暗記しようとします。
しかし,全部の事項を暗記することはできないので,結局理解できないまま終わってしまうことになります。
このように,教科書での説明が少なくなれば,逆に「暗記」に頼る生徒が増えてしまう面もあるのではないでしょうか。
もちろん,すべての項目が丁寧な説明になったとは言えませんが,理解を助ける資料や図版などが増えれば,それだけ理解がスムーズになります。
ですから,教科書が分厚くなる→理解できない生徒が増える→不満をもった生徒が暴れる,という図式を思い浮かべるのはやめてほしいと思います。
逆に,教科書を薄くして,暴力やいじめが減りましたか。
むしろ,説明が簡略化すればするほど,生徒の理解に差が生じやすくなると思います。
思考するには,知識も必要です。
教科書は,そのベースとなるラインを示してくれるものだと思います。
もっと分厚くなっても良かった,と思うくらいです。
みなさんは,いかがお考えでしょうか。

手作りテストについて

もう随分前のことになりますが,私が小学生のときに,担任の先生が手作りの実力テストをつくって,定期的に実施していたのを思い出します。
ザラ紙で印刷したテストで,けっして見ばえは良くないのですが,授業で学んだこともとにして考えれば解けるような問題だったと思います。
成績の順位は発表しなかったものの,一人一人が自分は何位なのかがわかるように通知してもらったように記憶しています。
近頃は,見ばえの良い,よく練られた業者テストが使われるようになり,こうした手作りのテストがなくなっていったのは,とても残念です。
とは言え,業者テストが使われるから自分たちの仕事が成り立つので,矛盾したことを言っているのはよく分かっているのですが,それでも,やはり手作りのテストにたまらない懐かしさを感じます。
先生の質がどうだとか,テストも作れなくなったとか,高学歴化した保護者の方々がいろいろとクレームを言っているようですが,現実問題として作るだけの時間がないのでしょう。
力量がないわけでも,その気がないわけでもなく,様々な雑用のために,作りたくても作れないのだと思います。
私が作るのは,いわゆる「業者テスト」です。これを職業としている以上,きちんと実力が評価できる,お金を得られるテストになっているのは当然です。
しかし,私の原点には,自らが受けてきた手作りのテストがあるのは事実です。
「これを理解できているかい?」「ここはきちんと理解しておこうね」と生徒に問いかけるような,そんなぬくもりのある問題です。
こんな気持ちで作っている人は,他にはいないかもしれません。
でも,私はかつての「手作りテスト」のようなテストを一人でも多くの人に受けさせてあげたいと思っています。

もし,そんな気持ちの方が,ほかにもおられるならば,是非,私どもといっしょに作りましょう。
連絡いただけることを切に願っています。

競艇場で通信簿の成績をつけていた教師について

毎日新聞の記事によりますと,ある大阪府の中学校教師が競艇場で生徒の通信簿の成績をつけていたことがわかりました。
恐らく,皆さんも怒りや憤りよりも,あきれてしまう気持ちになられたのではないでしょうか。
大阪府は,橋本市長により,大阪市大阪府が連携し,さまざまな教育政策が実施されつつあります。
教師に向いていない人は,教育現場から去ってもらう,という過激な発言もありました。
何もそこまで言わなくてもいいのではないか。これは教師をないがしろにする発言ではないか,という反論もあります。
しかし,生徒の人格を無視した教育を行う,ましてや犯罪を犯すような教師がいる限りにおいては,何らかの対処を考えるべきでしょう。
私自身,教育に携わる者として,教師がいかに大変な仕事で,精神的にもかなりのストレスを抱え,その気がなくても聖職者意識をもたざるを得ないことがかなりの重荷になることを理解しています。
しかし,今回のように,あまりに教師としての自覚が欠如している方がおられると,世間の人々が教師全体,あるいは学校全体に対して不信感を募らせるのも事実でしょう。
教育は,日本の将来を支えるものであると同時に,多くの人々の人生を大きく左右します。
この意識があれば,競艇場に成績をもっていき,舟券を買うときにそれを放置するなどという行為はけっしてできないと思います。
襟を正し,真摯な姿勢をもっていただきたいと,切に願うばかりです。

学力検査の実施について

今日の毎日新聞の記事によりますと,いままで学力検査を課さずに入学を決めていた自治体の多くが学力検査を行うように変更をするらしい。
かつて「受験生ブルース」などでも「紙切れ一枚に身を託す」などと揶揄された入学試験ですが,しかし,入学審査において学力検査を課さないというのは,やはり考え難いと思います。
学力が下がるのは目に見えています。
「脱ゆとり」教育が競争を激化させるなどという,批判はありますが,試験を課さないで学力を伸ばすのは難しいと思います。
「全員,それぞれなりに努力したのだから,全員に5をつけた」などというのがときどき話題になりますが,この評価は,本当に適切でしょうか。
たとえば,毎日,見たいテレビも我慢して必死に勉強をして100点をとった生徒がいるとします。また,毎日ゲームばかりして勉強をせず30点しか取れなかった生徒がいるとします。この二人の生徒が,「それぞれ努力した」とみなされ,同じ評価だとしたらどうでしょうか。
そして,努力をしなかった生徒は,評価だけは高いとして,学力検査なしで志望の学校に入学したらどうでしょうか。もしかしたら,この生徒が入学することで,毎日必死に勉強していたにもかかわらず,「全員が3」の評価をされた生徒が入学できなかった,などということがあるかもしえません。
全員が手をつないでゴールする運動会。
全員が同じく努力したとしてつける「3」の評価。
これは,本当に平等なのでしょうか。
私は,努力した者が報われることこそ平等だと思います。
「学力検査を実施する」のは,その意味で必要なことであり,競争である以上は,どこかで線引きされるのは,仕方がないことだと思います。

ただし,入学試験の結果で,人間の価値が決まるものではないことは強く言いたいと思います。
これを誤解している人が,競争を悪だと決めつけるのだと思います。
学力検査は,あくまでも,人間の一つの側面をはかる目安にしかならないことを申し上げたいと思います。,

ブログを再開します

長らくブログをお休みして申し訳ございません。
昨年の一年は,今までの経験のなかでも,最も忙しかった年となりました。
教材関係の方々は,みなさん同様ではないかと思います。

振り返れば,仕事の進め方でも,もっと工夫できたのではないか,とか,これだけは仕上げておけばよかった,などと思うことも多々ありますが,それは今後生かすとして,いまは前を向いていたいと思います。

ブログを書き始めてから,実に多くの人が集まってくださいました。
昨年一年間,本当に力の限り仕事をこなしていただきました。
一人ひとりに感謝いたしております。

年々,仕事が増え続けております。
私どもの仲間として,教材づくりに取り組んでくださる方がございましたら,お気軽にお声かけください。

リンク先のエデュ・プラニングのHPの「お問い合わせ」からご連絡ください。
よろしくお願いいたします。