狂言のしぐさと日常生活について

昨日,茂山狂言会を鑑賞しました。
間近で見られたこともとても嬉しかったのですが,狂言で演じるしぐさやせりふのレクチャーがあったことが何よりも嬉しかったです。
狂言での歩き方,石の投げ方,笑い方,泣き方など,それぞれがどのような意味を持ち,なぜそのようにしているのかが,よくわかりました。
例えば,石を投げるとき,ぐるぐると手をまわして勢いをつけるのに,いざ投げるときには一旦手を止めて,それから投げるのは,まったく理にかなっていませんが,こうしたほうが,手から飛んでいく石の方向を想像しやすいという説明を聞き,なるほどと思いました。
同様に,泣くときのしぐさは,手を額のあたりにつけますが,こうしたほうが,前かがみになったときに,観客からは目の上に手があるように見えるというのにも,確かにそうだと思いました。
狂言のしぐさやせりふの言い方などは,いわば非日常のしぐさであり,言い方だと思います。
こんな歩き方や笑い方をする人は,まずいません。
それなのに,そうした歩き方を美しいと感じ,笑っているのだとすぐにわかるのはなぜでしょうか。
それは,デフォルメされた美だと思います。
つまり様式美なのだと思います。
私たちは,ふだん写実的な美に囲まれています。実際に楽しそうに笑う姿や,忙しげに歩く姿を見ながら過ごしています。
しかし,狂言には写実的なものは何もありません。
型にはまったしぐさや言い回しがあり,舞台には道具らしい道具もありません。
すべては想像するしかないのです。
そして,この想像を最大限に引き出してくれるのが,この様式美なのだと思います。
話は変わりますが,小説と漫画の人物像の描き方の違いについて,よく言われることがあります。
「彼は狼のような目をしていた。」
小説ではたったこれだけで済みますが,漫画では目だけではなく,髪の毛も輪郭も,鼻も口も耳も描かなくてはならないのです。
その意味では,小説のほうがはるかに想像力を必要としており,漫画のほうが写実的にならざるを得ないのだと思います。
こう考えると,狂言は小説と同じように,非常に想像力を必要とする芸術であり,それだからこそ,長い年月を経ても人々の心を捉えて止まないのだと思います。
そう言えば,原作は面白かったのに,漫画になると,あるいは映画になるとつまらなくなった,という作品も多くありますね。
リアルに描いたときに,想像していたものとギャップがあると,何だかがっくりしてしまいます。
「絶世の美女」を実際に見せるとなると,これは難しいですね。
万人が納得できる「絶世の美女」をリアルに表すことは,極めて困難です。
各人がさまざまな想像をしているからこそ,「絶世の美女」は存在しているのかもしれません。
ともかくも,いにしえ人の心にわずかながら触れたような気がして,とても満足のいく一日でした。
みなさんも,是非,非日常の世界に触れてみてください。